Pages

2010年6月23日水曜日

OFM日本管区の歴史 4

二〇世紀初期

6.   復活・信徒発見      7.  フランシスカンの帰還

六 復活・信徒発見

① 一八五三年、ペリー率いるアメリカ艦隊の来航により、日本は外国との関係を新たに持たざるを得なくなった。②長崎、横浜、函館が海外からの船舶のために開港し、諸外国は船員や商人のためこれらの港に教会を建てることを許された。③ 一八六五年三月一七日、長崎の教会で、数人の日本人がパリ外国宣教会のプチジャン神父に近寄り、自分たちは彼と同じ信仰の者だと打ち明けた。それをきっかけに、カトリック世界に電撃を走らせるようなニュースがもたらされた。④長崎での「信徒発見」である。何万もの隠れたキリスト教徒たちが二五〇年に及ぶ迫害の間、ずっと信仰を守り抜いていたのである。ヨーロッパ各国からの圧力で、一八七三年、日本政府はキリスト教宣教のために宗教の自由を認めた。しかし、それは表面的なものであり、さまざまな規制や嫌がらせ、そして殉教さえもが、一九四五年の第二次世界大戦終戦まで続いた。カトリック教会では、最初はパリ外国宣教会だけがこの国の福音宣教を担当した。 10

七 フランシスカンの日本帰還

①小さき兄弟会の二〇世紀日本到来は、最初の時と同様に裏戸口からとなった。最北の島、北海道でマリアの宣教者フランシスコ修道会付きチャプレンとしての着任であった。フランシスコ会の総長は、②モーリス・ベルタン神父を派遣した。以前一八九五年、フランス海軍士官であったベルタン大尉は、長崎に上陸し、聖ペドロ・バウティスタ殉教の遺跡を訪れた際、自らがフランシスカンとなって修道会を何とか日本に連れ戻そうと一大決意をして帰ったのである。翌年、彼はモントリオール(カナダ)でフランシスコ会に入会した。そして司祭叙階後、フランシスカンの日本帰還への関心を呼び起こすために書いた数々の手紙が効を奏して、彼の夢は実現したのである。③ さらに、アフリカに宣教に行けなくなった、フルダ管区(ドイツ)のヴェンセスラウス・キノルド神父も、ベルタン神父と共に日本に行くよう任命された。二人は一九〇七年一月に日本に到着し、六月には二人のカナダ人兄弟、ピエール・ゴーチエ神父とガブリエル・ゴドボー修道士と合流した。キノルド神父は翌年、宣教地の長上に任命された。北海道での先駆けであった他の宣教師たちは、必ずしも皆が喜んで「よそ者」であるフランシスカンにその地を開いてくれたわけではない。とは言え、函館教区長であるパリ外国宣教会のベルリオーズ司教は、最初から兄弟たちに修道女たちのチャプレン以上の働きを期待し、発展中の都市札幌にある土地を彼らに与えた。そこで、④近代日本での最初のフランシスコ会修道院は、一九〇八年九月一四日に設立された。⑤小教区も始められ、今日もなお兄弟たちがその世話をしている。宣教師が増えるに従い、司教はその管轄地域をさらに多くフランシスカンに委ねた。

0 件のコメント:

コメントを投稿