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2010年6月23日水曜日

OFM日本管区の歴史 5

20世紀初期

8. 北海道宣教地区 9。目標と方法 10.樺太(サハリン)宣教地区 11.鹿児島。 12.浦和 13.長野 14.第2次世界大戦

八 北海道宣教地区

新しい宣教師たちがどんどん加わり、一九一四年に第一次世界大戦が勃発した頃には、その数は一四人となっていた。最初は国際的な宣教地区であった。大多数はフルダから来ていたが、モントリオール(フランス人モーリス・ベルタンとイギリス人一人を含む)やチロル、バヴァリア、メッツ、アイルランド、それにシレジアの諸管区からも兄弟たちが来ていた。しかし、ヴェンセスラウス・キノルド神父は現実的であった。「もし宣教地区を一つの管区に所属させなければ、誰もその維持に責任を持てもしないし、持とうともしないだろう」と主張した。一九一一年、北海道宣教地区はフルダ管区に任せられた。聖座は一九一五年に同地区を知牧区(apostolic prefecture)とし、一九二九年には代牧区(apostolic vicariate)に昇格させて、キノルド神父を区長、ついで司教に指名した。 着任から五年後、兄弟たちは札幌に小神学校を開き、教区とフランシスコ会の志願者を受け入れた。司祭と修道士の兄弟たちは増え続け、一九四〇年には三五人に達した。実際には、六五人以上の兄弟たちが着任したが、その数は死去、帰国あるいは他の宣教地への任命などにより、常

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に減らされる目に遭っていた。彼らのほとんどはフルダから来ており、その宣教活動の範囲は、⑥オーストリアに匹敵する広さの北海道だけに止まらず、隣接するサハリンにまで及んだ。

九 目標と方法

一六世紀以来、日本の土壌は根本的に変質してきていた。今度は、猜疑心と誤解で固められた岩地であったから、福音の種は容易に根を下ろすことができなかった。改宗の一つ一つはどれも恩寵と勇気の小さな奇跡であった。⑦ 小教区教会が次第に各都市や大きな町に建てられたが、それらはただ単に礼拝の場だけではなかった。どちらかといえば、活動拠点のようなもので、驚くほど様々な活動を繰り広げたのである。そこで、人々に出会い、友となり、理解を得るために、宣教師たちの想像力、才能、熱意で生み出し得る事は何でも行われた。このような活動を通して、それに彼らの貞潔と犠牲心の証しを通して、ゆっくりとしたペースではあるが、人々は彼らの言葉を受け入れるようになっていった。 ⑧兄弟たちは来日して間もなく、日本人が本当に必要としているものは何かを悟った。名目上は仏教徒であるほとんどの人は、キリストを知り、その救いの力を知ることにより得られる喜びと希望が欠けていたのである。であるからには、宣教師たちの主な目標は、イエスの善き知らせを広め、求める者に教理を教え、洗礼を授け、キリスト教徒の信仰を育てて、社会を内から刷新することができる者に成長させることであった。これらの方法と目標は、基本的には日本の小教区における使徒職全体に同じであり、現在に引き継がれている。 言うまでもなく、兄弟たちは人々の他の必要も目にして、⑨病院や学校を建てたり、貧しい人々や打ち捨てられた人々の中で働いたりして、それに応えようと務めた。しかし、ここでもまた、兄弟たちは自分たちの仕事を通して人々が何らかの形でキリストと関わるようになるのでなければ、物足りなく感じていた。

一〇 樺太(サハリン)宣教地区

⑩アグネルス・コワルツ神父(シレジア)は、一九一一年にサハリンを北海道から巡回し始め、後に他の兄弟たちと一緒にその地に住んだこともある。一九三二年、ゲラルド・ピオトロウスキー神父を長に、ポーランド人のフランシスカンたちがサハリン宣教地区の責任を引き受けた。一九三八年、同地区はフェリクス・ヘルマン神父を区長とする知牧区(apostolic prefecture)となった。 サハリンは気候の厳しさに加えて、宣教活動に課せられた厳しい制限のため、働くのが困難な土地であった。一九四一年に外国人宣教師が強制退去させられ、一九四五年、ソビエト連邦の接収により宣教地区は消滅してしまった。 12

一一 鹿児島宣教地区

⑪北海道宣教地区が一九一一年にフルダ管区に委ねられた時、モントリオール管区が日本で独自の宣教地区を始める提案がなされた。これは一九二一年に実現した。モーリス・ベルタン神父とウルバン・クルティエ神父は、日本最南端に位置する鹿児島県と沖縄県での福音宣教を引き継ぐため北海道を去った。⑫ 鹿児島県での宣教地区の総面積は北海道より狭いものの、日本と台湾の間、一〇〇〇キロにもわたって並ぶ島々に広がっていたのである。約三千五百人のキリスト教徒のほとんどが奄美大島に住んでいたので、兄弟たちはまずこの地での働きに専念した。それからの一二年間に、カナダから新しい宣教師たちが三六人着任した。人数が多かったものの、その内の何人かは死去したり帰国したりした。エジディオ・ロア神父が一九二六年に地区長に、ついでに一九二七年には、知牧区々長に任命された。ロア神父は、この地方の行政中心地である鹿児島市に移った。⑬ フランシスカンの日本への帰還を発起した人モーリス・ベルタン神父は、東京にフランス人兄弟による共同体を始める準備のため、一九二八年フランスに送られた。ここでまたしても、神のご意志は奇妙な線をたどって進められた。東京での共同体開設計画は変更されて、ベルタン神父はインドシナに派遣されてしまった。こうして、彼はベトナム管区の創始者ともなったのである。一九二七年に管区となったばかりのモントリオールは、日本で自立した組織体を発足させたいと望み、数箇所で共同体作りに着手した。それで、東京の計画を引き継ぎ、⑭田園調布に修道院を開いた。今日もなお兄弟たちがそこで宣教している。それに続いて、⑮長崎の小神学校と修道院、さらに鹿児島の共同体が開設された。一九三六年には、総長が正式に在日本カナダ準管区(commissariat)を設立した。

一二 浦和宣教地区

一九三〇年代の領土拡張熱は日本軍を中国との戦争に駆り立てた。その状況の中で、軍部にとって、鹿児島及び沖縄諸島は戦略上重要であり、またそこにいる外国人はすべてスパイの可能性があるとみなされた。反教会感情が助長され、残酷な迫害へ発展した。やがて宣教師たちは、最初に各島々から、最後には鹿児島からの退去を強制された。 そのように追い立てられた兄弟たちは、長崎と東京に配属され、また一九三七年には東京のすぐ北にある新しい地域へ派遣された。いまだ福音宣教が希薄だったその領域にとって、鹿児島からの追放は祝福をもたらすものであった。それは、埼玉県、栃木県、群馬県、茨城県からなる地域であった。浦和市(現在のさいたま市)は宣教地区の中心となり、一九三九年にできた知牧区(apostolic prefecture)の本部となった。アンブローズ・ルブラン神父が、在日本準管区長を務める傍ら、宣教地区の上長及び初代知牧区々長となった。 13

鹿児島の兄弟たちの離散から、もう一つ思いがけない「副産物」が生じた。⑯ジュスタン・ベルローズ神父は、他の兄弟と共に韓国に派遣され、そこでやがてフランシスコ会韓国管区となるべきものの創始者となったのである。

一三 長野宣教地区

⑰アグネルス・コワルッツ神父は、北海道宣教地区で働きながら、自身のシレジア管区の宣教地区を持ちたいと長い間望んでいた。一九三五年、彼と他の二人の兄弟には、東京北西にある、山の多い長野県の二つの小教区(松本と上田)が委ねられた。彼らは三番目の拠点として長野市にも小教区を開いた。しかし、間もなく戦争によって何もかも停止させられた。

一四 第二次世界大戦

日本の軍部がますますその影響力を強めていくに伴い、教会は宣教活動をさらに制限され、官憲の敵対的方針のために身動きが取りにくくなった。⑱一九四一年、ついにすべての外国人教区長が、札幌のキノルド司教と浦和のルブラン神父も含めて、辞任させられ、日本人教区管理者が聖座によって任命された。日本の教会は、教区司祭に責任を渡す以外に選択肢がなかった。その時点では、宣教師たちにとってショックであったが、後になってみると、神意による土着化への後押しのように思われる。第二次世界大戦の勃発と同時に、カナダ人宣教師は全員収容された。また、彼らが受け入れたばかりの日本人修練者一四人は、軍に徴兵された。ドイツ人兄弟たちは、抱束されなかったものの、その活動は非常に厳しく制限された。戦時中、両宣教地区で、合わせて一〇人もいない日本人フランシスカン司祭と修道士は、信徒たちが信仰を守るのを助け、教会と修道院を維持し、宣教師を支援するために英雄的に闘った。彼らに協力したキリスト教徒たちは、その勇気の報いとして官憲からの脅迫を受けた。

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