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2010年6月23日水曜日

OFM日本管区の歴史3

16世紀~17世紀

3. 殉教 4. 再建   5. 迫害

三 殉教

新しい宣教師たちが一五九四年と一五九六年に到着したため、その小さな一団は長崎と大阪にも宣教の場を開くことができるようになった。そんなところへ逆境が訪れて来た。⑮それは台風によって日本へ打ち寄せられたスペイン船が運んで来たものである。カトリック教会の敵対者はその事件を利用して、宣教師の活動がスペインによる日本征服の準備だとの言い掛かりを蒸し返したのである。秀吉はフランシスカンとその直接協力者の逮捕と処刑を命じた。⑯ 六人のフランシスカン、彼らの協力者一五人(その中に一二〜一五才の少年三人が含まれる)検挙された。捕らえられたフランシスカンは、スペイン出身のペドロ・バウティスタ・ブラスケス、マルチノ・デ・ラ・アセンシオン・デ・アキレ、フランシスコ・ブランコ、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、メキシコ出身で、故国での司祭叙階のためにサン・フェリペ号に乗船していたフィリッポ・デ・イエズス、およびインド出身のゴンザロ・ガルシアであった。⑰イエズス会のパウロ三木と二人の伝道士も逮捕された。全員は左耳をそがれ、⑱京都、大阪、堺の街を引き回された後、長崎まで二六日間の苦悶の旅を強いられた。旅の途中で二人の信徒が仲間に加わった。長崎に到着した一五九七年二月五日の朝、彼らは港を見渡す

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⑲西坂の小高い丘に連れて行かれ、十字架に縛り付けられ、胸を槍で突き刺された。午前一〇時までに、二六人の殉教者はその犠牲を全うした。その場を目撃した人々は、殉教者が明るく、落ち着いていて、主に感謝し、居合わせた人々に永遠の命を望むように励ました、と語り、そして死に顔が美しかったと述べている。ペドロ・バウティチスタ神父とその同志たちは、一六二七年に列福され、一八六二年に列聖された。⑳現在、その殉教の跡に建てられた教会と記念館は、これら日本で初めて信仰のために血を流した人々、そして続く年々彼らの模範にならった幾万の人々の記憶を守り伝えている。

四 再建

追っ手を免れた、兄弟ヘロニモ・デ・ヘスス神父は、ペドロ・バウティスタ神父から、地下に潜り信者たちを司牧するように命じられた。一五九八年、秀吉が死に、その後、 ①徳川家康が時の権力を握った。マニラとメキシコとの交易を再開しようと望んだ家康は、スペイン人の好意を得るために助けとなる人間を探していたところへ、ヘロニモ神父が日本にいるとの噂が耳に入った。徹底した捜索の結果、ヘロニモ神父は身柄を家康の前に引き出された。結局ヘロニモ神父は、予期した殉教でなく、家康の使節の推薦状を書く仕事へと呼ばれたのである。お返しに、②彼は日本に滞在することも、また江戸で教会を建てることも許された。それは、現在の八丁堀に一五九九年に建てられた「ロザリオの元后聖マリア聖堂」である。後に、マニラでの交渉が挫折した時、家康はヘロニモ神父本人を派遣した。彼は将軍家康の要望を認めさせるのに成功したばかりでなく、一六〇一年、新しい宣教師たちを一緒に日本へ連れ帰ることもできた。ヘロニモ神父は日本のフランシスコ会の第二の創始者と考えられている。同じ年、彼は最初の兄弟たちが京都で立ち上げた病院で息を引き取った。一六〇一年から全国的迫害の勃発する一六一四年まで、三〇人以上の兄弟たちがマニラとメキシコから日本に到着した。彼らは、一〇の宣教拠点と七つの病院、それに幾つかの巡回拠点を作り宣教活動を始めた。長崎の教会と病院を除いて、フランシスカンたちは主に大阪京都地域と江戸周辺を中心に活動した。後に一六一一年、ルイス・ソテロ神父が本州の北部(仙台地域)でキリスト教を初めて宣べ伝えた。③ソテロ神父は一六一三年、仙台の④大名伊達政宗によりマドリッドとローマに派遣された⑤支倉常長の使節団を用意した。

五 迫害

何人かのキリシタン大名などによる策謀や、オランダ、イギリスの商人たちの反カトリックの中傷誹謗によって影響された家康は、⑥初期の寛大さから弾圧へと変わっていった。ついに家康は、すべての外国人宣教師を国外追放し、すべての教会を破壊し、すべての日本人キリスト信徒に信仰の放棄を強制する旨の法令を発布するに至った。家康の命令は容赦なく冷酷に実行された。迫害の時に上長であったディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父は、日本からこのように書き送っている。「日本のフランシスカン宣教は一六一四年の始め頃までは非常に栄えていた。しかし、一六一三年に家康により公布され、翌年から施行された追放令の結果、この国のあらゆるフランシスカン施設が破壊された。」 迫害の間、フランシスカン二八人と、フランシスコ会律修第三会日本人司祭二人、それに数百人という在世フランシスコ会の人々が殉教の栄冠を勝ち取った。⑦一八六七年、教皇は二〇五人の殉教者を列福したが、その内には一七人の小さき兄弟、一人の律修第三会の兄弟、それに約四〇人の在世フランシスコ会々員が含まれていた。⑧一九八七年には、ドミニコ会家族の一六名の殉教者が列聖された。さらに二〇〇七年には、⑨ペトロ・カスイ岐部と一八七名殉教者の列福が正式に決定された。激しい迫害にもかかわらず、宣教師たちは絶えることなく来日し、また命を賭けてキリスト教を信奉する人も増え続けた。ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父は、本州北部について次のように書いている。「一六二六年には五千人の信徒がいた。三年後にその数は一万三千人以上に上っていた。」江戸幕府は、ついにはすべての宣教師を消し去った。殉教した最後の兄弟は、おそらく一六四〇年に江戸で死亡したであろう。しかし、その後も執拗なキリスト教徒狩り、殺害か強制背教かの迫害が続いた。そして幕府は、キリスト教の禁止、日本人の海外渡航禁止、海外貿易の徹底した管理体制であるいわゆる「鎖国」政策を確立することに成功した。だれがどう見ても、キリスト教は根絶してしまったのである。

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