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2010年6月23日水曜日

OFM日本管区の歴史 6

20世紀後半

15.復興 16.フランシスカンの若返り 17.一致に向けての動き

 

一五 復興

①一九四五年の終戦と共に、反キリスト教的な法律は廃され、四〇〇年の時を経て日本は初めて真の信仰の自由を謳歌することになった。何年かの間、宣教師も含め皆が食糧その他の生活必需品の不足に苦しんだ。しかし、肉体的飢えだけでなく、真理や生きる意味を求める魂の飢えも広がり、数多くの人がそれを捜し求めて教会を訪れた。日本で改宗者がたくさん出たと言うニュースは世界各地に伝わっていった。フルダとモントリオールから再び宣教師が少しずつ来日し始めた。さらに、日本人修練者の大半が戻って、新たに修練期を始めた。しかし、収穫のためにはもっと多くの働き手が必要であった。 14

一六 フランシスカンの若返り

ちょうどその頃、一九四八年から一九四九年にかけて、中国では、共産政権確立に伴い、宣教師が何百人も国外追放された。またも神の摂理の予期せぬ働きにより、これら強制退去させられた宣教師の多くが日本にやって来た。フランシスカンにとって、時の人は②アルフォンス・シュヌーゼンベルグ神父であった。極東総長代理としてアルフォンス神父は、中国からの排除追放を日本の教会を再建する機会へと転換することに着手した。説得その他の、いろいろな手を用いて、中国から出て来た兄弟たち、それに他の諸管区から集めた若者たちを、数多く日本に送った。日本に新しくやってきた兄弟たちは、北海道、浦和、長野にすでに存在している宣教地区に赴いた。何年も経たないうちに、これらの兄弟たちは母管区を説得して、人員を必死に求める司教たちと契約して、自身の宣教地区をもつようにした。③一九五〇年〜一九五六年の間に一〇の管区の努力の結果、合計一二の宣教地区がフランシスカンによって宣教司牧されるようになった。④一九五七年の統計によると、日本には二一五名の兄弟たちがいた。そのうち日本人兄弟は四七名で、七〇名は中国で宣教していた兄弟であった。母管区から若い兄弟たちが送り込まれ、物質援助も得て、フランシスコ会の受け持ち小教区は約一〇〇にまで増加し、キリスト教徒の数は飛躍的な前進を見た。他の兄弟たちは、東京の三つの新しい重要な施設に赴任した。それは、⑤瀬田の聖アントニオ神学院(哲学神学共)、⑥聖書の日本語翻訳と出版のためのフランシスコ会聖書研究所、それに、⑦六本木の宣教師のための聖ヨゼフ日本語学院である。これらは、長代理が設立し、スタッフを手早く揃えた。総この三つの施設は、長年にわたって大切な役割を果たして来た。日本語学院は優秀な教育で名声を得たが、新しい宣教師の数が激減したために、一九九八年に閉校となった。聖アントニオ神学院は、フランシスコ会の神学生を一〇〇人以上養成し、また他の修道会の神学生や修道女も養成して来た。同神学院は、教育の質の高さと修道生活の雰囲気のために高く評価されていながらも、修道者の急激な召命不足に悩まされている。⑧聖書研究所は、エキュメニカルの共同訳聖書の翻訳に重要な支援を提供しながら、自身の注解付翻訳を完成させ、間もなく一冊にまとめた聖書を出版する予定である。研究所の新約聖書は常にベスト・セラーとなっている。なお、その施設内の仕事だけでなく、兄弟たちは、使徒職の範囲を大学での講義、著作、研究などに広げている。さらに、アルフォンソ神父の下で、フルダ管区に属する⑨福岡の志願院(ラテン語)とモントリオール管区に属する⑩浦和の修練院が、日本のすべてのフランシスカンに利用されるようになった。一九五七年にアルフォンス神父はローマへ呼ばれ、フランシスコ会宣教事務局長となった。

一七 一致に向けての動き

日本の教会が成長するにつれて、フランシスコ会に入会を志す日本人の若者も多くなった。彼らは、福岡の志願院、浦和の修練院、瀬田の神学院で充実した修道生活と神学養成を受けたが、養成が終了した後の彼らを迎えた状況は、しだいに問題視されてきた。主な問題の一つは、日本人会員の所属する組織が日本にない、ということであった。それぞれの志願者は、自分の出身地区を担当する海外管区の会員として入会して、養成が終了するや、その地区に帰るのであった。海外管区に対する帰属意識と恩義の気持ちが強く、また自分の地区のことに夢中で、他の地域の兄弟たちについて知識も関心もほとんどなかったのである。こうして、それぞれの地区では、小教区教会の司牧を中心とした福音宣教が優先され、小さき兄弟としての生活はその犠牲となりがちであった。また、小教区以外の使徒職に携わることが望ない空気もあった。めな こうした事態は、教会と本会の「真の福音宣教は宣教地に修道生活を植え付けるべきである」という方針に逆行するものであった。一二の独立した宣教地区は多くを達成したとは言え、フランシスカン生活によって高められた福音宣教を目指すためには、日本の地に根を下ろした、より統合された組織、及びより深い修道精神が必要であった。このことは、アルフォンス神父の後に総長代理を引き継いだ⑩アポリナリス・ファン・レーウェン神父にとって明らかであった。彼は、日本および全アジアにおいて、海外管区から独立したフランシスカン組織母体が必要だ、と精力的に主張した。やがて本会が「管区」と「準管区」というものを創設したのは、主に師の先見の明が認められたことによる。また一九六七年の総会においても、その後も、アポリナリス神父が粘り強く説得活動を続けたことに拠るところが大きい。その後、主にいわゆる第三世界の各地で、規模こそ小さいが成長する見込みが大きい組織母体が次々と新しく設立されていき、総会などでその代表者となったアジア人やアフリカ人が着々と数を増やして、⑪本会が世界規模の兄弟共同体であるという自覚を強く深めていった。その頃、日本にいる兄弟たちの間に、それぞれの宣教地区を統合しよう、という動きが広まり始めた。それは、一九六三年に新しく総長代理となったシグフリード・シュナイダー神父により推し進められた。ところが、話し合いを重ね、総本部の宣教事務局長が激励に日本訪問したにもかかわらず、一致統合に関して兄弟たちの意見は決して一致統合を見なかったのである。独立した組織体になるという提案は、大勢の兄弟たちには水の上を歩くという呼びかけのように見えた。またある者には、元の創始管区への放蕩息子の拒絶のように思えた。福音宣教に支障が起こると案ずる者もあった。賛成の者でさえ、多くの兄弟たちは時期尚早であると感じていた。

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