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2010年6月23日水曜日

OFM日本管区の歴史 7

20世紀後半

18.OFM日本連合 19.日本管区設立 20.管区としての発展 21.会員の減少

一八フランシスコ会日本連合

一九七〇年二月、このように気乗り薄の日本のフランシスカンたちに対して、①総長のコンスタンティノ・コーゼル神父は強力な後押しをした。総長は、「新しい総長代理の②カリスト・スイニ神父の第一の仕事は、統合に向けての交渉を完成させることである」と発表した。すべての兄弟と話し合っても埒が明かなかったので、同年一一月に、一二宣教地の地区長たちは、「フランシスコ会日本連合」の結成を決定した。翌年一九七一年、正式に連合が発足したが、それは、フランシスコ会においては、修道会としても初めての組織であった。カリスト・スイニ神父が初代会長に選ばれた。連合の中で、一二宣教地区はその自治を保持し、以前と同じく海外管区に所属していた。しかし三つの目標、すなわち、具体的な協力によって精神的な一致を促進すること、フランシスカン的生活を改善すること、そして完全な統合に向けて準備することは、皆の賛成を得ていたのである。連合は、その六年間の存続期間中、兄弟たちが互いに知り合い、信頼しあうことができるようにという大役を果たした。一九七四年、連合はフランシスコ③佐藤敬一神父を会長に選出し、管区設立のゴールを三年後と設定した。宣教地区にとって統合が受け入れやすいように、複数の共同生活の場を持つ地区には相当の自治を与え、新しい管区の「分管区」とすることを総長が提案した。

一九 フランシスコ会日本管区に

④一九七七年一二月一六日、小さき兄弟会日本聖殉教者管区は、一二宣教地区の内の九つの地区が入籍することで創設された。その八年後(一九八五年)、北海道の旭川地区が日本管区に入籍したことによって、日本全土は一つの管区に統合された。フランシスコ佐藤敬一神父は初代管区長に任命された。佐藤敬一神父は、一九八三年に任期終了し、一九八五年に新潟司教となった。第二代管区長は⑤ピオ本田哲郎神父(一九八三―一九八九)が務め、その後は⑥アンドレア福田勤神父(一九八九―一九九五)⑦、ヨアキム前川登神父(一九九五―二〇〇一)、⑧ミカエル湯沢民夫神父(二〇〇一〜)と引き継がれてきた。 管区創設時の総長の提言通り、日本管区は入籍したそれぞれの地区を「分管区」として船出した。これは兄弟たちのやる気を引き出すことには成功したが、各地区の自治が一致を妨げるものだと分かった。そのため、一九八六年の管区会議では、これらの分管区を地域修道院へと格下げすることが話し合われるようになった。その後、一九九二年の管区会議において全ての地区は修道院となることが決定された。兄弟たちは新しい管区が出来たことに満足していたが、自治権について妥協したために枠組みが作られただけであった。内実として真に一つの管区としての兄弟共同体と呼べるものを打ち立てるには、さらに何年もの辛抱強い努力が必要であった。

二〇 管区としての発展

①管区の創設と発展はさまざまな形を取った。最も目に見える変化は、責任のある諸役職を日本人兄弟たちが担ったことである。会員の構成も変わり、外国からの宣教師が多数を占めていた時代から、日本人が多数を占める時代へと変わった。 17

フランシスカンの生活様式とメンタリティーの面でも、意識変化が静かに起こっていた。連合の時代から今日に至るまで、あらゆる年代の兄弟たちが、さまざまな形で、生活様式と福音宣教の両面でフランシスカンらしさとは何かを考え続けている。最初、このような検討は、ほとんどの兄弟にとって時間の無駄のように見えた。なぜなら、彼らは自分のことを後にも先にも宣教師であると考え、フランシスカン生活のことなど修練期以来ほとんど考えたこともなかったからである。しかし、日本管区が設立されてからは、こうしたアイデンティティに関する考察はもっと広く受け入れられるようになり、②今では生涯養成プログラムの本質的部分を成すまでになっている。その結果、兄弟たちはフランシスカン・アイデンティティというものをゆっくりではあるが確実に再認識するようになってきた。そして、日本の各地から集まっているということもあって、兄弟たちは同じ管区に属する兄弟としての意識を深め、絆を強めていったのである。③ 一九八〇年代になると、日本の兄弟たちは、貧しく底辺に追いやられた人々との関わりを深めるようになった。何人かの兄弟たちは、大阪の釜ケ崎と④東京の山谷地区で長年にわたり、日雇い労働者、貧しい人々、ホームレスなどに交じって特別な活動を続けていた。今度、会全体が「貧しい人々の優先」をモットーとしているために、日本のフランシスカンたちも、別な形の不正や差別、そして貧困に対して目を向けるようになった。行動と質素な生活様式によって、そうした不正や差別、貧困に苦しむ人々と連帯するようにとの呼び掛けに、多くの兄弟たちは熱心かつ具体的に応えた。残念なことに、そうした熱意を、自分のこれまでの仕事や生活を否定するものと捉えた兄弟も多く、対立が生まれた。その結果生じた分裂もやがて徐々に相互受容へと変わっていったが、そこに至るまでには何年も要した。この経験は苦しいものであったが、おそらくそれは成長に必要な過程だったのであろう。④ また、管区の成長が目立ったもう一つの面は、海外宣教に目を向け、他の管区に一四名の宣教師を派遣し、物的支援も行うようになったことである。特記すべきは、一九八二年に五名の兄弟をアフリカ・プロジェクトに送り込んだことである。それと同時に、管区の執行部では、兄弟たちが共同生活を送れるような場所を作るために力を注いだ。しかし、この考えは独り暮らしに慣れている多くの兄弟たちにはなかなか受け入れられなかった。⑤共同生活を妨げる更なる要因に会員数の減少があり、このため多くの司祭の兄弟は、二、三の小教区を掛持ちせざるを得ず、その結果、兄弟的な共同生活のための時間は奪われた。 ⑥一九七八年に、祈りを中心にしたリティロが軽井沢で始められた。その重要性は理屈ではわかっていたものの、実際に参加した兄弟はわずか一握りで、二〇年後には閉鎖された。兄弟共同体の発展を長いこと妨げた最大の難問は、おそらく経済的にばらばらであった点であると言えよう。つまり、宣教地区の兄弟の収入はその地区に属し、その使い道もその地区の兄弟が決めるというものであった。年月が経つにつれ、宣教地区の兄弟たちの姿勢も幾分変わり、地区は管区本部の運営と養成の費用及び共通の建設基金のために資金を分担することに同意し、年次会計報告書も提出するようになった。こうした段階を経たおかげで、相互信頼と日本全体の兄弟会に対する責任感が深められていったが、財布のひもをだれが管理するかという大きな問題(会計を管区として実質的に一つにするという課題)は手つかずのままであった。

二一 会員の減少

⑦フランシスコ会への入会を希望する日本人の数は年々少なくなっていった。召命の減少は、一九五〇年代半ばに始まった教会の数的成長の停滞と密接につながっている。⑧第二次世界大戦後の十年間に、カトリック信者の数は毎年一万人かそれ以上増えた。しかし、社会の経済状態が良くなり、一人当たりの国民所得が増えるに伴い、大人の受洗者数は減少し、ようやく自立を保つレベルの四千人程度にとどまっている。この五〇年間、日本人カトリック信徒の数は全人口の〇・三%にすぎない(プロテスタントとカトリックの日本人信徒数を合わせても約一%にすぎないが、⑨二〇〇〇年頃を境に外国籍の信徒数が日本人信徒数を上回るようになり、日本の教会は以前にはなかった課題に取り組んでいる)。幸いなことに、この事態に促されて、福音宣教の広い意味が理解されるようになった。人数は二の次であり、大切なのは、キリストの福音を生きること、社会の価値観を変えること、そして貧しい人々や底辺に追いやられた人々と連帯して生きることであることが認識されるようになったのである。修道生活への召命も同じように減少傾向をたどった。この問題をさらに深刻にしたのは、戦後のほとんどの小教区や学校、慈善事業を始め、そこで働いていた外国人宣教師の数が四分の一になってしまったことである。この間、多くの兄弟が天国へ、あるいは母国へ、あるいは自身の世帯へと去って行った。⑩一九七〇年には日本に二六五名いた兄弟の数が、その後の三〇年間に五〇%以上減少し、将来の見通しは明るくない。状況は世界の先進諸国のどの管区でも似たようなものである。鋭い見方をする人は、この主な原因を、修道者が安定とか成功という世俗的な価値観を広く採り入れるようになったからだと言っている。⑪フランシスコ会の歴代の総長たちは、この問題の唯一の解決策は創立時への回帰であると考えている。すなわち、生活様式においても福音宣教の方法においても、祈りと小ささと兄弟愛に根ざした新しい方向に向かうこと(再創立)である、と。しかしながら、日本の兄弟たちは、変化が突き付ける挑戦に立ち向かうことがなかなか出来ずにいるように見える。

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