Pages

2010年6月22日火曜日

OFM日本管区の歴史2

16世紀~17世紀

1.はじまり    2.到着

一 始まり

①最初のフランシスカンの来日は、「天が曲線で真っすぐに描く」ということわざの典型的な例である。予期もせぬ人、ありそうもない出来事、そして逆境、何よりも逆境は、神の国の到来のために特に選ばれた道のようである。400年の間、日の出ずる国において本会はその道を歩み続けてきた。②海外貿易船の船長だったホアン・ポブレ・ディアス・パルドは、以前にマカオのフランシスカンたちから感銘を受け、巨万の富を捨ててフランシスコ会に入った。ホアン修道士は、六八歳の高齢でマニラにおいて初誓願を立て、二、三カ月後にはマカオに行って、再び彼らに加わり、一緒に中国で新たな宣教活動を始めたいと望んでいた。しかし、③マカオに行ってみると、兄弟たちの家は破壊されており、皆そこを去った後であった。まるでそれだけで打撃が足りないかのように、マニラへ帰る途中、彼の船は日本南部の平戸への迂回を余儀なくされた。そしてそれによって、だれも予想にしなかったことが始まったのである。ただ二カ月の④平戸滞在中、この老修道士の謙虚さと清貧に、土地のキリスト教徒たちは深く心を打たれ、マニラに宛て、フランシスカン宣教師を送ってほしいと願う手紙を次々に書き送った。その願いは効を奏したものの、フランシスコ会が日本へ宣教師団を送る準備をしている最中に、同国への福音宣教をイエズス会に留保するという教皇の⑤小勅書が届いた。宣教師派遣は、一時の間は停止された。ホアン・ポブレ修道士に深い感銘を受けた人は他にもいた。その人物は⑥ゴンザロ・ガルシアである。ゴンザロはインドでポルトガル人の父とインド人の母との間に生まれ、日本で八年の間イエズス会の伝道士として働いていた。彼はホアン・ポブレ修道士の生き方にあこがれて日本を離れ、マニラで小さき兄弟会に入会したのである。彼は後に、日本でのフランシスコ会宣教開始者の一人となる。日本でのキリスト教宣教活動は一五四九年⑦フランシスコ・ザビエルの到着によって始まった。それから五〇年も経たないうちに、イエズス会宣教師たちの熱意と聖霊の特別の働きにより、盛んなキリスト教運動が生まれ、⑧いく人かの有力な地方大名たちもキリスト教に改宗した。一六世紀の終わりには、日本のカトリック信者は、三〇万人もいたと推定されている。権力者たちの政治的・経済的陰謀により、宣教活動は何度も中断されたにもかかわらず、百名以上の宣教師が、希望と決意と逆境の中での柔軟性を失わずに働き続け、信徒の数は増えていった。フィリピンのスペイン人フランシスカンが将来有望なこの地に入るきっかけは、妙なことに、⑨太閤豊臣秀吉の領土拡張政策によってもたらされた。当時、フィリピンも侵略の危険が迫り、マニラの総督は、一人の使節(ドミニコ会員)が海難で死亡した後、⑩フランシスコ会のペドロ・バウティスタ・ブラスケス神父を秀吉への特使として選んだ。7

二 到着

一五九三年、ペドロ・バウティスタ神父は、平和条約交渉の特使とフィリピン聖グレゴリオ管区の宣教師という二重の任務を帯びて、日本の平戸へ向け航行した。バルトロメ・ルイス神父、フランシスコ・デ・サン・ミゲル修道士、それに摂理によって与えられた通訳者のゴンザロ・ガルシア修道士が同行した。⑪彼らは秀吉と公式会見することに成功した。秀吉はマニラとの平和協定に同意し、さらにフランシスカンたちが日本に残ることも許可した。⑫やがて彼らは京都の一角に土地を与えられ、一五九四年一〇月四日、新しい修道院と教会を天使の元后マリアと命名し献堂した。それに続いて修道院の両隣にそれぞれ五〇床の病院が二つ建てられた。その時以来、⑬彼らはどこに行っても病人とハンセン病者の世話をした。この事や彼らの厳格な清貧と祈りの生活に惹かれて、大勢の求道者が修道院の門を叩いた。多くの信者は病人の世話や教理伝導を手伝い、その中のある人は、兄弟たちと日々の生活を共にするようになり、フランシスコ在世会に入会した。やがて宣教師たちの殉教に加わる協力者の中に在世会員も入っていた。 ⑭近年、一九八七年にフランシスコ会が京都中心街に得た土地が、まさにペドロ・バウティスタ神父たちの最初の施設の遺跡だったことを知り、兄弟たちは驚き感動した。そこに建てられたフランシスコの家は、祈りそして他宗教との対話のセンターとしてその精神を二一世紀に引き継いでいる。

0 件のコメント:

コメントを投稿